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「政治の液状化」(平成20年10月コラム)

2008年10月1日
連載:Mr.Ishikawaの時事コラム
「政治の液状化」(平成20年10月コラム)

タイトル「政治の液状化」

 自民党、民主党、公明党の党首選が終わり、国会の首班指名が終わり、次ぎの関心は国会論戦、衆議院解散・総選挙へ移る。
 しかし、最近は“政治が液状化”し国家存立が危うくなっている。この場合の“政治の液状化”とは、地下にある無責任、無能力という水脈が上昇し地上の社会構造が揺らぎ社会統治の機能が働かなくなる状態を言う。
 社会保険庁の年金事務の不祥事で国民の生活保障が根底から脅かされながら関係者は誰一人責任をとらない。さながら昭和37年に発表され一世を風靡したコメディアン植木等の主演映画「ニッポン無責任時代」を地でいく話である。
 また、三笠フーズの事故米転用で食品業界では大損害が発生した。ところが、農水省は96回も立ち入り調査しながら悪事を放置した。そして、太田農水相は「じたばた騒いでない」と開き直った。なぜ立ち入り調査が機能しなかったのか、農水大臣はじたばたしてもらわなければ困る事態であった。と思っていたら太田大臣と白須事務次官が引責辞任した。農政の舵取り役が不在になる事態である。これらはごく一部の事例だが、政治と行政が機能不全に陥っていることを端的に物語る。

 安倍、福田、麻生の各首相は元首相などを父や祖先や縁者に持ち政治家としての血筋はサラブレッドである。資質は優れたものを受け継いでいるのかもしれない。
 だが、1年の間に安倍、福田の2首相が政権を投げ出し、3回連続で国民の審判を受けていな首相が出現した。
 福田総理は「日銀総裁人事もインド洋給油活動も参院の反対にあい議決が難しい」と愚痴を言い責任を野党に押しつけた。
 参院の野党多数を国民の意志と理解すれば政府側が野党が合意できる議案にして出し直すのが民主主義の筋であろう。
 麻生氏への政権禅譲を謀り辞任したのも間接民主主義である議会制民主主義の欠陥をつき自民党政権延命を狙った党利党略の行為と映る。
 国民の生活実感からかけ離れている世襲の“政治家貴族”や国民から選ばれた存在でない“官僚貴族”に国の舵取りは任せられない。

 イギリスでは政治を改革し続けたサッチャー元首相は野党の執拗な批判攻撃や政権内に相反する考え方の閣僚を抱えながら、国内機能を麻痺させる労働争議やフォークランド戦争などの難題を鉄の意志で乗り越え11年間国政をリードし続け、重傷の衰退国家を活力ある国家に変えている。
 さらに時代を遡ればヒットラー政権の欧州制覇の野望を打ち砕いたチャーチル首相など時代の変革時に指導力を備えた人材がタイミングよく輩出している。
 サッチャーもチャーチルも幼少から変革時に対応する資質を磨いている。サッチャーは地方の政治家だった父親の薫陶を受け自立する資質を磨き、チャーチルは幼少時から戦争に関する学習を続け、ともに歴史の転換点に巡り合わせその資質を開花させた。
 日本では2世議員が多いが、イギリスのような政治風土があるだろうか。
 現在の日本の根本的な政治行政の課題は、3つのシステム構造を変えることにある。
 その第一は、中央集権から地方主権へ統治システムを変えること。
 第2に官僚主導から政治主導へ行財政運営を変えること。
 第3に東京一極集中型から地方分散型へ社会経済構造を変えることである。
 地方自治の改変は機運が高まりつつあるが、中央省庁の抵抗の壁は厚く頓挫状態である。
 民主党の長妻昭氏の「闘う政治—手綱を握って馬に乗れ」、自民党の中川秀直氏の「官僚国家の崩壊」の両著書が語るように、政治家は官僚の掌の中で転がされている。
 両者は“官治主義”の実態を変えないと根本的解決はできないという点で一致している。政官ともに意識欠落している問題は東京一極集中の排除である。
 これこそ日本の異常な国の形、産業経済の衰退、人口や雇用や所得の格差など社会問題の根底にある諸悪の根源であり、この問題を解決しない限り、あすの日本はない。
 国民中心の政治行政を言いながら、実際は党利党略、数合わせ政治が多すぎる。この際、全政党をガラガラポンして政策中心に政党再編し国民の信を問うべきである。

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