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水戸黄門の印籠(平成20年8月コラム)

連載:Mr.Ishikawaの時事コラム
水戸黄門の印籠(平成20年8月コラム)

 民間テレビの番組「水戸黄門」は現在第38部を数え、34年以上も続く超長寿の人気番組である。
 水戸黄門役は、かつて榎本健一、月形龍之介が演じた時もあったがナショナル劇場シリーズとなってからの水戸黄門役は代替わりし現在5代目である。
 初代は東野英治郎、2代が西村晃、3代が佐野浅夫、4代が石坂浩二、そして現在の里見浩太朗である。  お供の「助さん」、「格さん」も代替わりし、かつての「助さん」だった里見浩太朗が黄門様に出世しているところが、刻んだ年月の長さを感じさせる。 その他の脇役も入れ替わり立ち替わりしているが、由美かおるが「かげろうお銀」や「疾風のお娟」と名を変えながら連続出演し頑張っているのには驚かされる。
 勧善懲悪のストーリーで必ず正しい方が勝つので安心して見ておれるが、逆にそこから日本人の社会観、社会体質が透けて見える。 東野英治郎役の「水戸黄門」がアメリカで放映されたことがあったが「権威主義的だ」と不評だった点と共通する問題であるように思う。

 「権威」(authority)とは「社会を縦の関係でとらえ上級者が下級者を支配する」ことである。
 ドラマの中で「鎮まれ、鎮まれ。この紋所が目に入らぬか。ここにおわす方をどなたと心得る。
 先の副将軍水戸光圀公にあらせられるぞ。頭が高い、控えおろう」と三つ葉葵の印籠を示し一喝し、悪人たちが「ハハッー」と平伏するのが定番になっている。 先の副将軍のシンボルである印籠を出してくるあたりが権威主義である。
 権威主義は民主主義の対極にある概念であり、TV番組「水戸黄門」は名ばかりの民主主義国家・日本を風刺する番組とも言える。しかし、光圀公の力の源泉は権威にあるのではなく、徳を積んだ人柄からにじみ出てくる「威厳」にあるのではないか。
 [威厳](dignity)とは「堂々としていて立派なこと」である。権威と威厳とでは大違いである。
 今の世で「ここにおられるのは総理大臣であるぞ。頭が高い。控えおろう」と言われ「ハハッー」と平伏する国民がいるだろうか。 葵の紋の印籠に平伏してしまう体質が残る国である限り、真の民主主義国家にはなれない。
 元禄時代に水戸藩主を辞し黄門(朝廷から与えられた権中納言の中国の官職名)になった光圀が諸国で悪代官や悪徳商人たちを懲らしめて歩くのがこの番組の基本構造である。 だが、社会背景を考えてみれば平成の世でも生活保護の受給申請を拒絶するお役人、原材料表示を偽って商品販売する悪徳企業があるなど、元禄時代と大差ない社会のようにも思える。 国民の心の奥に黄門様待望論があるのでテレビの長寿番組になっているとも考えられる。 また、黄門様が悪人たちを懲らしめる決め手になっているのが、「情報」と「武力」である点も興味深い。 悪人たちの謀議を「疾風のお娟」や「風車の弥七」が天井裏に忍んで聞き込み、めぐらした奸計の証拠書類を押収し断罪するのはスパイ映画「007」顔負けの情報戦である。

 21年5月から始まる裁判員制度では、国民が自信を持って判断を下せる証拠を得ることができるかが、黄門様のように判断できるかどうかのカギを握る。「お娟」や「弥七」のような優秀な検察官、警察官がいるかどうかという意味に通じる。
 さらに、悪人たちが刀を抜いて斬りかかってくるのを「助さん」「格さん」や「風車の弥七」「鬼若」「お娟」たちが手傷一つ負わずに防戦し黄門様を守ることができるのは、武術に秀でたお供がいるおかげである。 日本の社会も警察が拳銃を所持し自衛隊が武装し、国民は非武装であるから治安が保たれている。
 逆に、銃所持を禁止できないアメリカでは治安は最悪である。また、軍事政権のミャンマーや北朝鮮では武力が独裁政権を維持する手段になって民衆を苦しめている。 北朝鮮は究極の武力である核兵器をちらつかせることで、宿敵アメリカをテーブルに同席させることに成功した。 武力は使い方次第なのである。 日本は島国で天然の要塞に囲まれているので、武力侵攻には無頓着であり、人はそれを「平和ボケ」と言う。 武力を使わずに済む社会であるのは望ましいが、歴史をみれば戦争が絶えた時代はなかったし、なかかなか難しい問題である。

 権威と情報と武力の3つを表すのが3つ葉葵の紋入り印籠である。しかし、これらは統治する側が備えるべき能力であり、統治される国民の側には無縁な力である。 昨今の日本政府が打ち出してくる政策はさながら印籠を示して「頭が高い、控えおろう」と国民に権威に従属することを強要し苦しめている姿に映る。印籠無用の世の中にするには国民のレベルで政策論議を盛んにする必要がある。
 以上、「水戸黄門」番組ファンの妄想雑感。

 
 
 
 

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