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「説明責任」を説明する責任(平成20年3月コラム)

連載:Mr.Ishikawaの時事コラム
「説明責任」を説明する責任(平成20年3月コラム)

 ある人が「信号無視のバイクの高校生と衝突した。将来ある若者なので警察の事情聴取では『できるだけ穏便に』と言った。ところが、その後その人は高校生がまた信号無視運転しているのを目撃してしまった。情けは人のためならずだね」と自戒の弁を語った。この際の「情けは人のためならず」は間違った日本語の使い方であることにお気づきと思う。日本語は難しい。

 カタカナ言葉はもっと難しい。最近頻繁に登場する言葉で間違った使われ方が定着した観があるのが「アカウンタビリティー」である。日本語で「説明責任」と訳され「説明して分かってもらう責任」のような意味で使われるケースが大半を占める。政治家や会社社長など有名人が盛んに使うようになったが、本来の意味からややズレている。
 「アカウンタビリティー」(Accountability)とは「会計」を意味する「アカウンティング」(Accounting)と「責任」を意味する「レスポンシビリティー」(Responsibility)との合成語で元来「会計説明責任」の意味で使われた。アメリカで1960年代に公共機関が公金の使い方を納税者である国民に説明する際に使った言葉で、後に企業が資本家や顧客に対し業績を説明する際にも使われ、今では政治家や官僚が政策や施策がどのように実行され、どんな成果を上げたかを明らかにし、経営者が企業活動全般についての業績結果を利害関係者に明らかにする際に使う。日本に存在しないこの概念を「説明責任」と訳したのはカール・ウォルフレン氏と言われ、氏は「日本の官僚はアカウンタビリティーの問題をPRの問題とすり替えている」と怒っている。そこに間違い言葉遣いの本質がある。

 「レスポンシビリティー」は個人のモラルの問題であるのに対し「アカウンタビリティー」はシステム、組織の問題であり「人間社会の関係性」の基本概念である。日本社会は戦前までリーダーは「由らしむべし、知らしむべからず」の姿勢だった。地位や権力に胡座をかき社会性や倫理性に欠ける振る舞いをしても批判されなかった。その精神風土は今も残っており、年金不払いのお役所や不良品販売の企業などが相次いでいるが、今度はリーダーがテレビで陳謝する時代に変わった。「説明して分かってもらう責任」であれば広報担当者、PR担当者に任せて済む問題だ。社会の構成員としての組織となればそれでは済まない。右図「アカウンタビリティー・レベルの5P」のように5段階のすべてでどう対応したか、どんな結果を出したか、結果責任が問われる時代になったのである。

 近年、行政組織は行政評価やパブリックコメントなる手法を導入し業務内容の透明性を高める試みを行っている。お役所は仕事量が増えてさぞ大変だろうと思う。しかし、これらのシステムを導入すれば「アカウンタビリティー」が果たせるかと言えば、ノーである。導入したシステムをどう生かしたか、の「アカウンタビリティー」が必要になる。つまり、際限なく性悪説社会が進むのだ。世の中は専門化、複雑化、高度化すればするほど中が分からないブラックボックスが多くなる。不祥事が起きやすくなり相互不信が増す社会になる。この際、シンプルで透明な社会にする必要がある。それには、国民や顧客の側も行政や企業が提供するサービスの内容を常にチェックすることが前提になる。何のことはない、国民、顧客の側の手抜きにも原因があるのである。

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