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自明の理の民主主義と自治を疑おう(平成20年2月コラム)

連載:Mr.Ishikawaの時事コラム
自明の理の民主主義と自治を疑おう(平成20年2月コラム)

 昨年の参院選で民主党が生活重視を政策に掲げた時、筆者は「ひょっとすると…」と予感した。
 結果は案の定、民主党の大勝に終わった。
 日々安穏に過ごしているように見えても大方の国民は内心、将来の生活に対する不安でいっぱいだと思っていたので、政権与党はお灸をすえられるかもと思ったからである。 つまり、政治と国民との間に大きな断層があったのである。 だが、参院選惨敗の後を受けて登板した自民党総裁の福田首相は老練である。 小泉、安倍の両政権で掲げられた改革路線を踏襲しつつも、国民本意の視点で政治を行う路線へ軌道修正し、年金不払いや薬害肝炎などの問題で官庁組織の論理を超える価値観を示し国民生活を重視する姿勢を印象づけた。 国民本位の政治が行われるのはおそらく戦後政治で初めてではないか。

 13年前の阪神淡路大震災の時「被害状況全体が分からずに救援などできない」と言った総理大臣がいた。 当時の政治は行政の発想しかなかった。
 高度経済成長時代の政党政治は行政組織の上に乗っているだけでよかった。
 つまり、金で問題を解決できたし、行政組織はあらゆる課題に対応する調査研究機関を抱えているので、政党が独自の能力を持つ必要がなかった。 むしろ、国民の側に軸足を置く一部野党の方が国民の実相を的確に見ていた。
 所詮守りの体質や一律の発想から脱却できない行政組織に依存した政治では真の改革はできない。
 年金不払いや薬害肝炎などの問題は氷山の一角である。 自民党も民主党もようやくそこに気づき独自にシンクタンクを設けることにした。 政党政治が機能するようになるかどうか、正念場である。 既に司法は裁判員制度の導入という形からの改革で真の民主主義社会形成へ先鞭をつけた。 多数決だけが民主主義の原理ではないし、裁判官と検察官と弁護士にだけ司法を任せておけばよいのではない。 日本は本当に民主主義社会なのかどうか?と疑う必要があるのである。

 地上では真の民主主義社会は未だに実現していない。ウィンストン・チャーチルは「民主主義はひどい制度だ。だが、ほかの制度はもっとひどい」と言った。 民主主義社会の実現はギリシャ時代に2度試みたが失敗、3度目の挑戦が現代なのだ。 日本の民主主義は戦後、現憲法によってもたらされた。 しかし、アメリカ合衆国憲法の場合「われわれ合衆国人民は…憲法を制定する」となっているのに対し、日本の現憲法は「朕は…帝国憲法の改正を裁可し公布せしめる」となっている。主権在民の度合いがまるで違うのだ。 同様のことが、地方自治制度にも言える。 現憲法で初めて登場した地方自治制度だが、真の地方自治になっているのか?。 現憲法制定時に連合軍総司令部(GHQ)は、自治の主体をアメリカのように「住民」にしようとした。 ところが日本官僚の抵抗で「地方公共団体」にすり替わってしまった。 自治の根幹が日米ではまるで違うのである。 自治の概念をあいまいにし続けたことで、地方分権一括法を制定しても分権が進まず、実態のない自治に終始し続けている。

 ここ数年の間に日本で「自治基本条例」を制定する地方自治体が急増している。 制定済みの県、区、市町村を合計すれば既に100を超しているのではないか。 山形県内でも平成19年9月に遊佐町が「まちづくり基本条例」を施行させた。 かつて、三鷹市が住民と行政と議会との協働で「基本構想」をつくり注目されたが、自治基本条例は平成12年の北海道ニセコ町の「まちづくり基本条例」が嚆矢といわれる。 これらは地方分権一括法のようなトップダウンの分権ではなく、ボトムアップの住民による生活現場からの主権獲得運動であり、コミュニティー・イノベーションである。 これまでは、自治体の構成メンバーである、首長、議会、行政、企業、住民、NPO等の間に断層があること、上位法である各種法律に縛られ裁量権がなかったことで、生活現場での発想が硬直化してしまっていた。 住民が主体性と責任を持ち自治を実現する土壌ができていなかったのである。 自治基本条例制定に合わせるかのように近年、全国的に課題解決型ワークショップが地域づくり活動の一環として行われるようになった。 地域住民の合意形成への挑戦であり、真の民主主義社会、真の地方自治の実現への第一歩である。地域づくり型ワークショップは自明の理を疑い自己主張することから始まる。   

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