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山形避難者母の会

福島県郡山市から山形市へ自主避難し、「山形避難者母の会」をたちあげた中村美紀さん。避難者の願いを代弁する要望書を提出したり、親子が集える施設を運営したりと、避難している人たちのために献身的に活動しました。現在は郡山市から避難している人々を応援する中村美紀さんにインタビューしました。
やまがた避難者支援団体 活動インタビュー Archive number 009
山形避難者母の会
やまがたひなんしゃ ははのかい


山形避難者母の会
山形避難者母の会 中村美紀さん のプロフィール

 福島市生まれ。夫と小3、年少、2歳(震災当時)の娘3人と福島県郡山市に住んでいたが、仕事のある夫を福島に残し娘たちと山形市に母子のみで避難。郡山では料理教室など食に関わる仕事をし、避難中も月数回通って続ける。長男の出産を機に自宅のある福島県郡山市に2014年3月に帰還。ブログ: http://mikttymama.exblog.jp  

山形避難者母の会
 山形県内にいる避難者約213人が登録。全国の避難者団体と連携し、国や福島県に要望書を提出したり、福島県議選の候補者に公開質問状を送ったりしてきた。主に(1)住民票を移していないことによる乳幼児医療費助成の一時的な窓口負担をなくし、避難先でも予防接種を受けられる措置(2)避難者専用の託児施設の設置や補助(3)福島から会いに来る家族向けの往復バスの整備(4)母親向けの雇用促進、(5)自主避難者のみなし仮設期間延長及び住み替え支援などを要望。避難者コミュニティを維持、支援活動の拠点として2012年5月に「村山地区ふくしま子ども未来ひろば」を他の母親たちと共に開設、現在も継続中。

※朝日新聞記事より
http://amaebi312.blogspot.jp/2011/12/blog-post.html
山形避難者母の会HP  http://yamagatahinanhaha.jimdo.com/


支援活動の経過
2011年
9月 福島県議会議員と意見交換会。乳幼児医療や保育の問題などの福島県知事へ向けた要望書を提出。
11月 福島県郡山市議会議員との意見交換会。冬季の無料運行バスや母子避難者の緊急雇用促進事業等の意見書を署名と合わせ提出。(福島県知事、郡山市長へ)
12月 福島県議会選挙立候補者に対する県外避難者への政策について、新潟の支援団体と連携し公開質問状を提出。
12月 福島県議会議員・共産党県連との意見交換会。
2012年
1月 山形市避難者交流支援センターにて、吉村美栄子山形県知事、市川昭男山形市長との意見交換会。
2月 福島県議会議員・民主党県連との意見交換会。主に、母子避難者の雇用、保育、情報支援の3つについて訴える。653名分の署名とともに、借り上げ住宅延長も含めた要望書を福島県知事宛てに提出。
2月 山形県議会議員・民主党県民連合との意見交換会。山形市議会議員・共産党議員との意見交換会。
4月 高速道路無料化延長が打ち切られ、東京災害支援ネット(とすねっと)の森川弁護士が国土交通大臣へ要望書を提出。山形避難者母の会もこの活動に賛同し、山形市のみで792名分の署名を託す。
5月 村山地区・ふくしま子ども未来広場」を開設、支援活動を開始。広報誌「Ahaha」を発行。
2013年
3月 村山地区ふくしま子ども未来ひろば、山形フォーラムから日本興亜山形ビル4Fに移転。
5月 5月初旬オープン、母子を中心とした交流会、未就園児のための一時預かり開始。「ママのためのADR相談会」、「リトミックdeあそぼ」開催。
6月 ママのための時間作りとしてお茶会、ヨガ・ピラティス教室を開催。また、アルソア化粧品株式会社様と連携し、エステ体験会を無料で開催。
8月 学童プログラム「夏休みお預かり教室」を開催。
2014年
1月 就労支援の一環として内職支援を行う。
2015年
4月 難中でもスキルアップを図るため、母親向けのパソコン教室、リフレクソロジスト養成講座を開始。避難者の希望に沿って自立を図る支援を行っている。
郡山市から避難に至るまで

 3月11日に震災が起こった時、私が住んでいたのは、福島県郡山市でした。それから3~4日後に、夫の勤務先からの勧めで、当時9歳、4歳、2歳だった娘たちと茨城県の避難施設に入ったんです。でも娘の学校の新学期を迎えるために、3月末に自宅へ戻りました。
 自宅に戻ってみると、やはり放射線量の値が高く、自分たちで除染を繰り返しながらも不安な気持ちで生活していました。

 山形市への避難を決めたのは、それから2ヵ月ほど経った頃。一番の原因は、娘たちの健康に対する不安でした。外に全く出られないストレスからか目の下にクマができ、口内炎やアトピー等が悪化、よく鼻血を出すようになりました。病院に行っても原因がわからず、「大丈夫」ということばを信じてよいのかさえもわからないまま、「小さい娘たちの体でもしかしたら何かが起こっているのではないか。このまま福島に住み続けていいのだろうか」と感じました。
 いろいろなテレビの報道に違和感を感じていた夫も、「やっぱり避難したほうがよいのでは」と言うようになり、受け入れ先を探し始め、8月に山形市へ避難しました。


「母の会」のたちあげ
山形避難者母の会のロゴマーク
山形避難者母の会のロゴマーク

 山形市に住み、はじめは何もわからないところからのスタートでした。徐々に避難している人、それを支援している人と出会い、いろいろな現状を知りました。避難指定区域ではない「自主避難」の私たちには、共通の肩身の狭さというか、自己責任で避難した人たちという世間的なレッテルがありました。たくさんの人が私と同じ想いをし、それを解決する術もなく苦渋を受け入れて生活している現状を、なんとか改善したい、私たちの想いをしっかり行政に伝えないといけない、と考えるようになりました。
 おなじく避難しているお母さんたちと一緒に「山形自主避難母の会」をたちあげ、9月22日、山形市避難者交流支援センターの協力のもとで、福島県に私たちの願いをつづった「要望書」を提出しました。(要望書はこちら

 「山形避難者母の会」と並行して、「りとる福島」という当事者支援団体にも入り、避難しているママ同士の交流を通してだんだんと山形市での生活が充実していったように思います。小学校に通う娘にも友達ができ、楽しく学校に通うようになりました。いちばん下の娘を連れて、いろいろなイベントや活動に参加するようになりました。
 福島県などの補助金や民間の助成金を受けて支援イベントを企画したり、行政に対して要望を出したり、県外の避難者支援をしている団体とつながったり……。どれも、私自身もそうですが、避難している人と子どもたちが抱える問題を解決したいという気持ちでやっていました。


村山地区ふくしま子ども未来ひろば
交流会のようす
交流会のようす

 「避難しているママ同士が、気軽にいつでも集える場がほしい」、「子どもを預けられる場がほしい」。そんなママたちの願いを叶えるべく、補助金を受けて2012年5月に開設したのが「村山地区ふくしま子ども未来ひろば」です。
 はじめは、「山形フォーラム」さんのご厚意で、施設のカフェスペースを借りて広場をオープンしました。いろいろな楽しいイベント、相談会、お食事会、そして子どもの一時預かり。ひろばの職員は、みな避難してきているママたちで、子どもがお休みの時などは広場で遊ばせながらということもよくありました。避難しているママたちも、いろいろな特技や資格を持っています。そういったものを活かしながら、ピアノ教室やダンス教室などもしました。一時預かりはもちろん、保育士の資格を持ったママがしていました。
 2013年5月からは損保ジャパン日本興亜さん(当時は日本興亜損保)から自社ビルの4Fを借り受けて移転、今もママたちや支援者の方が集い、活動を続けています。

 また、避難しているママに向けて、「貴女があの時大切な人のために真剣に考えて選択したこと、その全てを応援したい」という気持ちを乗せて、自主避難・母子避難者向け広報誌「Ahaha」や今の福島を知るための情報誌「KURASSO(クラッソ)」を発行しました。避難、帰還、定住。いろいろな選択肢がある中で、迷う人のお役に少しでもなればいいなと思っています。

クリスマス会 クリスマス会
子どもたちにダンス指導 子どもたちにダンス指導
情報誌「KURASSO(クラッソ)」 情報誌「KURASSO(クラッソ)」
 

郡山市に戻るきっかけとその後

  その一方で、夫は、仕事が休みの時はいつも夫が山形に来てくれていました。家族水入らずの時間を過ごし、娘たちも大喜びで、私も肩の力が抜けるひと時でした。
 避難生活が長期化するにつれ、子どもたちがパパと離れがたくて福島に帰るときにいつも大泣きすること、パパといられないストレスを抱えていることに考えさせられる日々が続きました。放射能から子どもを守るために避難したのだけれど、これって子どもたちを守っていることになるの?と。やっぱり子どもとパパを離ればなれにしておくのはうちの家族にとっては良くないのではないかという気持ちはずっと心の中にありました。

 それから、離れてみて、やっぱり私は福島が大好きなんだという想いが強くなっていました。仕事にしている「食」に関してもそうですし、やっぱり私のいちばん住みたい場所は福島なんだと。
 4人目をお腹に授かり、娘の進学なども考えて、2014年3月に郡山市に戻ることにしました。

中村美紀さんと子どもたち

 郡山市の自宅での生活は、家族がいっしょに生活することへの安心感、嬉しさがある反面、正直すこし不安でした。除染が進んでいるとは言え、山形市よりも高めの数値なので、地面を直接触らないとか、はじめの頃はかなり気をつけていたと思います。でもずっと生活していると、だんだんと慣れてくるというのは、実際ありますね。
 その中で、避難生活から戻ってきた時に、また避難した当初と同じことが起こっていると気づきました。「今まで避難先で培ってきたコミュニティから離れ、新しいコミュニティの中に慣れなければならない。その中での不安や苦労を分かち合える人が、すぐに見つかる状態にない」という状況です。帰還すれば避難されていなかった方たちとももちろん同等になり、生活再建する余裕もないままいきなり「普通の人」の箱に入れられてしまう。行政は元避難者だけを特別扱いはできないということなのです。私もしばらくは孤独を感じ、「ああ周りに知り合いがいないというのは、こういうことなんだ」と。常に集まるということではなく、何かあったら連絡できる、情報を聞ける、そういう拠り所があるという安心感が必要ではないかと感じます。

 現在、「ふくしま子ども未来ひろば」の運営は、現場でしっかり運営してくれている仲間たちに委ね、私は企画面でのサポート程度。これからは、福島県内に住む者としてできることもしていきたいと思っています。
 今までは、子どものことだけを考えてきたように思いますが、「自分が人として、女性としてどう生きたいか」ということを見つめなおすことで、自信をもって自分の道を歩めるんじゃないかと。復興って自分の幸せをそれぞれが真剣に考え、前に進んでいくことなんじゃないかと思います。そんな女性たちのお役に立てる仕事がまた何かできたらいいなと。今はそう思っています。

山形避難者母の会



〈取材:2015年8月〉




 取材を終えて
海谷美樹
 福島原発事故から生活の拠点を山形に移すことを選択した中村さん。その後の行動力は「すごい!」の一言で、中村さんの活動により山形県内の避難者支援が大きく進展していくのを私も身近にいて感じていました。福島に戻られてからも公私にわたり精力的に活動している姿を見て、勇気づけられる方も多いのではと思います。子育てしながらでも出来ることって、無限大だなと思います。(海谷美樹)
取材執筆:浅倉かおり 整文集約:海谷美樹
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