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形から入る司法の民主化「裁判員制度」(平成21年6月コラム)

連載:Mr.Ishikawaの時事コラム

5月21日から裁判員制度が始まった
 内閣府が平成18年12月に行った世論調査では「義務であっても参加したくない」が33.6%、「あまり参加したくないが、義務なら参加せざるを得ない」が44.5%と不人気で、今年に入ってからも「人を裁きたくない」「制度は廃止せよ」などの声が相次ぐ中でのスタートとなった。模擬裁判や広報宣伝など周知活動が盛んに行われてきたのに、裁判員制度に対する国民の理解は得られていないようである。なぜ、なのか。制度の周知活動が「専門的知識は必要ない」「短期間で終わる」などと参加しやすさを中心に行われ、「なぜ、国民が裁判に参加しなければならないのか」が説明不足だったのではないか。“お任せ民主主義の国・日本”では絶対必要な説明であった。裁判員制度は形から入る司法制度改革であるものの、民主主義国家へ社会が進化する観点では立法や行政の進化度を超える意味を持つ画期的な改革である。真の民主主義国家になるようしっかりした足取りで取り組みたい。

現代日本は司法、立法、行政の3権分立が基本構造になっている
 立法は国会議員が担い、行政は政府が担い、いずれも改革途上ではあるものの、少しずつ国民が参加する形になりつつある。だが、司法だけはほとんど手つかずであった。それが、平成13年6月の司法制度改革審議会の提言を受け、法曹界、政府、国会などの総意で裁判へ国民が関与する裁判員制度が導入されることになった。民主主義制度の原理の一つに「多数決」がある。だが、それは「参加」することが前提である。これまでの司法は専門家に委ねるだけで、国民は関与しない“お任せ裁判”であった。これでは民主主義国家の制度とは言えない。「お役所の押しつけ制度だ」という声があるが、それは日本の民主主義の成熟度への認識が足りない。「人の命を左右する決定など下したくない」という声もあるが、それはこれまで決定を下した裁判官も人であることを失念している。「難しい」とか「大変だ」という理由でかかわりから逃れようとすることは自己の存在を否定することにつながる。


裁判で認定される罪と罰
 わが国では罪刑法定主義の立場から、法律に規定されていないものは罪ではなく、罰せられることもない。その法律を作ったのは国会であり、国会議員を選んだのは国民である。この原理が守られないと、被害者の遺族などが加害者に復讐したり、地域社会で加害者をリンチしたり、無法状態になる。そうならないようにするのが裁判だ。政治や行政でも国民が政策選択、意志決定に関与してはじめて民主主義国家になるのと同じだ。しかし、今回の裁判員制度には制度上の疑念もある。その一つに公判前整理手続きがある。裁判を短くするため争点や証拠調べを事前に裁判官、検察官、弁護士の3者だけで整理する作業で裁判員はこれに参加しない。しかし、ここの場にこそ裁判員は参加すべきではないか。多様な視点で争点や証拠をみることで多角的にチェックできる訳で、裁判員制度を導入する意義を発揮できるのではないか。第2に、裁判員に課せられる守秘義務がある。裁判に関する感想は述べて良いが、裁判官3人と裁判員6人とで議論したことを外部に漏らすと懲役刑や罰金が科せられる。誰がどんな意見を述べたかを漏らす必要はないが、自分がどんな意見を述べたかぐらいは公表してもよいのではないか。裁判員制度への他者の理解を促進できる効果も期待できる。


有罪か無罪かの判定
 第1に条文に定められた犯罪類型に合致するかどうかの構成要件該当性、第2に正当防衛の場合や医師の手術などは除外になる違法性を有すること、第3に刑事未成年や心神喪失者などが除外される責任性を備えていること、の3点が基礎的要因になる。だが、1,2審で死刑判決が出て最高裁で上告棄却され刑が確定した和歌山毒入りカレー事件のように、決定的な証拠はなく状況証拠の積み重ねで判断を迫られ、加えて被告人は最後まで否認し続けた場合など、白黒の判別が難しいケースもある。さらに、諸外国で増えている死刑制度廃止、時効制度の廃止、心神喪失者で犯罪を重ねるケースへの対策、犯罪被害者や家族等の権利尊重、立証能力向上のための科学捜査の向上、犯罪者を出さない社会づくりなど、犯罪と裁判を取り巻くものには多くの課題がある。裁判員制度の導入を機に日本の市民社会の有り様に関心を深めたいものである。

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